森羅万象から学ぶブログ

I'm a slope photographer.

「坂が好き」というとあまり共感されない。

タモリさんが坂好きを公言しているが、それでもかなりマイナーなジャンルらしい。
 
「坂写真家」でググってみると、坂写真家を名乗っている人はどうもいないらしい。
そんな訳で今年から坂写真家を名乗ることにした。
A slope photographerである。
なんかかっこいいじゃないか。
 
坂というとどうも歩くのがしんどいとか、ネガティヴな側面をあげてくる人が多い。
もちろんそうなんだけど、一つ坂を歩ききった時に少し筋肉を使って気持ちいいあの感じ、そういったものに気付いてくれると嬉しい。
 
先が見えないというのも良い。
これは曲がり角と組み合わさることでより趣がある。
階段でもいい。その先に何が広がっているのか、そのワクワクがないとやってられない。何もない砂漠を歩いている気分になる。
 
長い下り坂を眺めると、人々の生活がパノラマのように凝縮されて映る。
長い上り坂の先には下り坂があるのか?どんな景色が見えるのか?そんなことを楽しみにすればネガティヴな側面は小さなものとなる。
 
東京は坂が多い。
わたしの住んでいた川崎市大阪市内は坂はあまりない。
オランダもほとんどが海抜ゼロ以下なので、坂なんて見た覚えが無い。
 
今年はたくさんの坂や階段、奥行きのある写真を撮りたい。
できればそれを誰かに見てもらい、何かを感じ取ってもらえれば幸いである。
仕事で歩くことも多くなるが、どんな坂に出会えるか楽しみである。 

なぜ資格を取りたいか

今年は資格を取りたい。

たぶん仕事ではそんなに役に立たない。それよりロジカルシンキングとか、メンタルの方が求められている。
 
ただできると思ってやれって言われたって、そうは思えない人もいる。
全てをできないと思ってるわけじゃない。ただその領域がすごく狭いんだ。
 
そんな訳で今年は「これはできるんだ」という感覚を増やしたい。
そうすることであれもできそうな気がしてくるし、今の自分がどれほど制限をかけているかも見えてくると思う。
 
時間の捻出とかどこを目指すかとか具体的な話はまた。

2016年にしたいこと

2015年はいろいろあった。

目の前のことに追われて、大局観を持つことができなかった1年と言っていいだろう。
設定していた目標もほとんど達成できなかった。
ブログも、何記事書いたっけ?あれ?って感じだ。
 
今年は社会人2年目に入る。
たくさん吸収できる環境がもう目の前にある。
その中で現場に対処しつつ、先のための準備をする1年としたい。
 
資格を取りたい。
やっぱりいつまでこの会社でうまくやってけるかなんて分からないし、チャンスを最大化したいし、何より小さな自信を積み重ねたい。
できる人からしたらそんなものなんの役にも立たないっていうかもしれないけど、這いつくばってる人にこそ一を積み重ねることが必要だと思うから。
 
好きなことをしたい。
昨年はあまり有意義な休日を過ごせなかったので、今年は毎週少しでいいから楽しいことをしたい。
美術館に行きたい。坂や風景の写真を撮りたい。行きたいところに行って、見たいものを見たい。
 
インターネットを活用したい。
今はSNSを使っていくらでも発信ができるので、存分に活用したい。
Twitterで綴った言葉は何年後かに自分を助けてくれる。
Tumblrは知りたいという欲求を発掘したりするのに向いていると思う。
こうやってひとつずつ思っていることをブログに書いていきたい。短いものの連続でいい。
Flickrで素晴らしい写真を誰かと共有したい。
Pinterestで自分の好きを表現したい。
 
2015年にたくさん上下することがあって、その結果気持ちが落ち着いてきたので、今年は自分の気持ちに正直に、モラトリアムから少し出るための1年に。
あけましておめでとうございます。
 
 

なんのために生きるのか考えてみた

私は生きるモチベーションが低い。

仕事がどうとかじゃなくて、そもそも生きるためのエネルギーに欠けている。

 

そんなことをずっと感じていて、でもなんとかもっと強く生きてみたいという気持ちもあってチャレンジするのだが、当たり前に生きたいと思っている人には当たり前に勝てない。

持っているエネルギーの総量が違いすぎるのだ。

 

生命エネルギーに欠けているということは、何をするにもエネルギーを要するし、ちょっと油断すると破滅的行動に出るということである。

 

それでも生きていたいなぁとどちらかというと思うので、なんとかそのエネルギーを得ようと生きる意味を考えてみる。

 

25歳の今たどり着いた答えは、「また誰かに会うために生きる」ということである。

 

自己実現とか、金持ちになるとかは、この際どうでもいいんじゃないかと思えてくるくらい、この答えが今のところしっくりきている。

 

海外に住む友人がいくらかいて、彼らにまた会いたい。

できれば笑って会いたい。

辛いこともいっぱいあるけど、それでもなんとかやってるよと笑い合いたい。

できれば何か一つでも、あの頃とは変わったんだぜってことくらいは示したい。

 

昔好きだった子と同窓会で会って、「知ってると思うけど、あの頃君のことが好きだったよ」とか言いたい。

 

高校の頃世話になった先生に会って、なんだかんだ楽しくやってますって言いたい。

悩み相談じゃなくて、笑って酒を酌み交わしたい。

 

昔付き合ってた子と梅田で会って、その子が「今度結婚するんだ」って言ったら、ありのままの気持ちでおめでとうって言いたい。

卑屈な心で、誰かの幸せにまで水を差したくはない。

 

そういういつかのために、なんだかんだ下を向きながらも生きているんだと思う。

 

そういう風に考えると、なんのために働くのかとか、空いた時間をどう使うのかとか、そういったことにも自然と答えが出てくる気がしている。

 

名誉とか周りの評価とかは、やっぱりどうでもいいのかなということに気づく。

 

「その瞬間に、自分が笑っていられるか」

 

そんな行動基準が一つできあった。

 

たぶん明日からもたくさんの「できないことに」打ちひしがれるだろうけど、そんな自分を支える誰かがいる限り、「あぁ自分は死なないんだ」なんて思えること。

それも一種の生命エネルギーなのかもしれない。

ネクタイに求めるもの

先日ネクタイを二本買った。

クールビズが終わって社会人生活も半年を迎え新たな気持ちで10月を迎えたかったからだ。

 

スーツはその少し前にネイビーの5万円くらいのものを買って気に入って着ていたため、白シャツにネイビースーツに合うネクタイを探していた。

結果としてえんじ色っぽいものとスーツと全く同じネイビーのネクタイを買ったんだが、どうも満足のいかない点が残った。

 

まず長い。日本男性の平均くらいであろう170cmのわたしがなぜネクタイの長さで悩まなければいけないのかわからない。

知人に話すと結び方がどうのという解決法を教えてもらったが、そもそも長すぎるネクタイの意味とはなんなのだろうか。

太めに巻くというスタイルがあるからそのためだといった説明を受けたが、「なんだそれ」と思ってどうも腑に落ちない。

少なくともわたしにとって、良いネクタイとは普通に結べば普通に長すぎないネクタイである。

 

もう一点気になったのが、生地の厚さだ。

これは見た目の点で優雅に見えるとかそういった効果があると思うのだが、生地が分厚いとその分結びにくくなる。

 

次ネクタイを買うときは、長さに慎重になり、生地はもう少し薄めのものを選ぼうと思う。

二本で1万円。

実際に使ってみて、また学びを得た。そんな話。